秦の始皇帝と秦始皇帝陵(キングダムの政の墓)
観光地名 |
秦始皇帝陵博物院・秦陵 |
英語名 |
Emperor Qinshihuangs Mausoleum Site Park |
住所 |
中国陝西省陝西市臨潼区 |
ランキング |
世界文化遺産登録・第一陣全国重要保護文化財 |
入場料 |
120元(兵馬俑+秦陵) |
観光スポット |
秦陵墳丘・百戯俑坑・文官俑坑 |
行き方 |
遊5/306・遊307路線バス |
開館時間 |
夏季08:00-17:30 冬季09:00-17:00 |
秦の先祖は甘粛省天水市辺りで牧畜を営んでいた氏族でした。秦の穆公は周の王様・周平王が洛陽へ逃れて政権を立て直したことに大きな功績をあげたから、西安の西にある「岐山」の地を褒美として得ました。それから、徐々に東への移動を繰り返し勢力を広げるようになりました。後の秦の始皇帝嬴政は紀元前259年に生まれ、13歳で即位し、23歳で親政を始め、法家流の思想をもって国を治めました。法治政治や軍事の充実に力を注いだ嬴政は東の六国を次々に滅亡して、紀元前221年に39歳の若さで天下を一つにまとめ上げました。
彼は古の三皇五帝にちなんで自ら皇帝と名乗り、中国最初の皇帝となります。始皇帝は中国歴史上、中央集権制という治世法を初めて採用しました。すなわち、咸陽を都とし、全国を各郡県に分け、中央政府が統括する形で官吏を任命して統治したということです。さらに度量衡や車の轍の統一と所謂焚書坑儒という思想統制を断行しました。それと同時に取りかかったのが大規模な土木工事でした。万里の長城、阿房宮、始皇帝陵、咸陽から各地へ向かう幹線道路であった馳道などです。
これらの大土木工事に苦しむ民は始皇帝の政治に不満をいだき、人心の離反と経済の破綻によって、ついに秦の末に陳勝・呉広の乱など農民の蜂起が勃発しました。紀元前207年に秦朝が潰れてわずか14年の短命王朝となりました。
秦の始皇帝は即位してから西安市の東約30キロの田園地帯、驪山の麓で自分の陵墓建設を仕掛けて、天下統一後は約70万人もの徒刑者を動員したといいます。紀元前210年、始皇帝は河北省で巡幸の途中で病死して50歳の生涯を閉じました。夏場のことで、遺体は腐ったのです。反乱を恐れた部下は塩魚を積んだと言ってその匂いをごまかし、都の咸陽に戻るまで皇帝の死を隠しました。後に遺体は37年もの歳月をかけて完成した陵墓に埋葬されました。
司馬遷の『史記』には、陵は三層の水脈を掘りぬいて床に銅を敷きつめてできた地下宮殿で、自然界とまったく同じように造営されていたとあります。百官の座や空を造るのみならず、川や海をかたどって、水銀を水とみなし仕掛けで絶えずめぐらせて流してあります。墓室の侵入者に対して自動的に矢が反射されるトラップを設けました。また、陵墓の秘密が漏れないように、この工事にたずさわった人夫をすべて中に生き埋めしました。
一方、1981年、考古学者と地質学者が共同で探知機による墳丘内部の水銀調査を行いました。水銀の川や海の存在がほぼ確認されています。とはいえ、発掘した物を保存する確実な技術がまだ確立されていないゆえに、発掘作業の進め方はきわめてじっくりとした慎重なものです。始皇帝陵の謎のすべてが明らかにされるまで、相当の年月を待つしかありません。