西安兵馬俑は西安の東郊外30キロに位置し、1987年、ユネスコによって世界文化遺産に指定されました。
紀元前221年、中国は秦によって統一され、秦の初代皇帝・始皇帝の墓、秦の始皇帝陵が、現在の西安市の郊外に作られました。周囲およそ6.2キロ、高さ76メートルもあり、巨大な規模を誇っています。始皇帝は自らの墓のために、38年の歳月と70万もの人々を動員し、生前に完成させたと言われています。墓を作るのに参加した職人たちも最後には殉死、つまり死を命じられたため、始皇帝陵は誰にも知られることなく2000年もの間、地下に眠ったままとなりました。 秦の始皇帝兵馬俑博物館は中国おける最大級の遺跡博物館であり、秦の兵馬俑の発見は偶然とも言えるのでしょう。
1974年、地元の農民たちが井戸を掘ったとき、大量な埴輪の破片が現れてきました。考古学の関係者の試掘調査で、これは秦時代の兵馬俑坑だということが分かりました。
秦の始皇帝兵馬俑博物館一号館は1979年10月にオープンしました。 規模が最も大きい一号坑は長さ230メートル、幅62メートル、深さ5メートルもあります。総面積は実に14260平方メートル、兵馬俑の数はおよそ六千体に達します。今でも一号坑は発掘作業が続けられていますが、中は土でできた塀の「土塀(どべい)」によって区切られ、上に丸太を渡し、その上にゴザをかけ、さらに2メートルの土で覆われています。兵馬俑は実際の軍のように、前衛部隊とその四方に立っている警備隊に守られ、主力軍は38列に分けられ、東に向かい整然と列を成しています。兵馬俑のうち兵士をかたちどった兵隊俑は、高さが平均180センチ、上半身は空洞ですが下半身は空洞ではありません。顔の表情はそれぞれ異なりますが、いずれも手に武器を握っています。一部の兵隊俑にはまだ色が残っています。一方、馬をかたちどった馬俑は高さは1.5メートルで、現在のキルギスとウズベクスタンの国境あたりの存在した国・大宛の馬に似て、足が速いと言われています。兵馬俑は近くの粘土を材料にして、彫刻などを施し、最後に窯で焼いて作られました。殉死制度のあった時代に、人間に代わって陶製の人形を殉死品とすることから、文明の進歩を窺う知ることができます。
二号館の兵馬俑はの遺跡はアルファベットの「w」の形をしており、四つのブロックに分けられている。二号館の建物は秦の始皇帝兵馬俑博物館における最も近代的な建物で、1994年竣工し、オープンしたのである。 二号坑は6000平方メートル、兵馬俑の数は千体余りがある。
1987にオープンした三号館で展示されている兵馬俑は1976年に発見されたものです。三つの兵馬俑坑の中で、規模の一番小さいほうである。専門家たちは三号館の遺跡が宿衛軍全体の統帥する司令部であると推定しています。 三号坑は500平方メートル、兵馬俑はわずか58体に過ぎずです。
1980年12月、秦の始皇帝をさらに掘り進めて見ると、陵の西側20mのところから、副葬の銅製の馬車が二台発見されました。大きさは実物の二分の一です。銅車馬の出土は秦代の冶金技術、車両構成、工芸造型を研究するための極めて貴重実物資料を提供してくれました。