鴻門の宴遺跡 鴻門の会遺跡
秦の兵馬俑博物館の北2.5キロの場所に、長さ1キロぐらいの険阻な台地が横たわっています。台地の真中から大きい裂け目ができて台地を二部に分けています。その裂け目が南北に走って、まるで城門のように見えるから、鴻門と名付けられます。ここは鴻門の会のために人目を引くことになります。
秦王朝の苛政に苦しむ農民の間から、ようやく陳勝・呉広の乱など一揆が爆発しました。この二人の没後、反乱軍の指導者の地位に上がり詰めたのは劉邦と項羽などでした。紀元前207年、項羽が主力軍を従えて巨鹿で朝廷の主力軍を全滅しました。
全力を挙げて決勝戦につとめているところ、都の咸陽の警備が緩まるでしょう。劉邦がこの隙をうかがって、要害の函谷関を避け南陽から武関に進入してきました。それから、藍田で秦軍を破り、たやすく咸陽を落として当時の皇帝・子嬰を捕虜にしました。しかしながら、劉邦は咸陽のものを一つも取らず、西安の東にある灞河の川岸で陣を敷いて項羽が率いる主力軍を待ちかまえます。
後に項羽の軍隊が関中地方に進入して一大要塞であった鴻門で陣を張りました。範曾という人が項羽のシンクタンクの一人で、劉邦の勢力に恐れて彼を殺すようと進言しました。それによって、項羽は鴻門で宴会を催して劉邦をもてなします。宴会の進行中、項羽の部下であった項庄が剣舞を踊りながら、劉邦を刺し殺そうとしています。劉邦の部下であった樊哙がそれをみて、すぐに立ち上がって項庄とともに剣舞を踊りながら自分の殿を守っています。その危険性を見抜いた劉邦は便所にいくと託して直ちに逃げてしまいました。
現在、鴻門の会の遺跡では昔のような兵営が一部復元されました。宴会の会場では昔の緊張さが生き生きと表現されています。