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シルクロードの東の起点
黄河最大の支流渭水の南岸に開けた陝西省の省都西安(せいあん)は、中国六大古都の一つで、唐に時代、シルクロードの繁栄を背景に国際的な百万都市として繁栄した都長安として知られている。
現在、市内のメインストリートには、近代的なホテルなどのビルが立ち並び、日本人をはじめ諸外国の観光客を集め、新しい国際都市の様相を見せている.高層のデパート、個人商店、自由市場での商業活動も盛んで、市内は雑踏している。夜になると、大通りには食べ物屋などの夜店が並んで、市内には昼も夜も市民のエネルギーが満ちている。
それでも西安には古都のたたずまいが十分に残っている。何よりも市街を取り巻くどっしりとした城壁が完全に保存されているからである。その点で、城壁をとりこわしたために景観が一変した北京とは、様相を異にしている。城内外とも近代的な町づくりが進められているにもかかわらず、西安には古都の風格が保たれている。
西安の歴史は古く、数多くの史跡がある。
まず、西安東郊外の半坡村遺跡。一九五四年から五七年にかけて、五回にわたって解放後最大規模の考古発掘が行われ、灞河と滻河に挟まれた台地上、五万平方メートルにわたって多数の竪穴住居址と彩色土器、一三〇基余りの墓葬などが発掘され、紀元前四〇〇〇年から前二五〇〇年にかけての新石器時代の遺跡であることが確認された。一九五八年、遺跡の五分の一万平方のメートルの部分に大きな体育館状のドームがかけられて   保存、公開されている。
この地に都城が置かれたのは、紀元前一〇五〇年頃にさかのぼる、陝西省西部にあった周が,中原の殷を倒して東進して鄷京と鎬京を開いたのである.両京は紀元前七七一年、周が洛邑(洛陽)に都を移すまで続いた。遺跡は、現在の西安市の西二五キロにあって、周代建築遺跡と墓葬、多数の瓦片などが発掘されている。
戦国時代初期の紀元前三五〇年。甘粛東部から中原への進出を図った秦が西安の北の咸陽に都を置いた。やがて紀元前二二一年二戦国諸国を滅ぼして史上はじめて中国全土を統一した史始皇帝は、咸陽城を拡張し、多くの宮殿を造営した。渭水の南北両岸の四五平方キロメートルの渡る地域から、多数の宮殿址や青銅器,陶器。瓦片層には一万人を収容する大ホール、下層は五丈(一一メートル余)の旗を立て並べることができたという。
西安の東三五キロ、驪山の麓に始皇帝陵がある。今は高さ六五メートル余、東西九七〇メートル余の壁に囲まれた広大な陵園に、多数の殿宇が建てられていた。『史記』によれば、墓内には壮麗な地下宮殿がしつられていた。
この陵墓から東へ一·五キロのところから、一九七四年、巨大な地下軍団兵馬俑坑が発現発掘されて世界を驚倒させた東西二三〇メートル、南北六二メートルの最大の一号坑をはじめ、二号坑、三号坑合せて総面積二万平方メートル余の地下から。整然と隊列を組んだ六〇〇〇体余りの将兵俑、戦車、(四頭竪の馬車)。騎馬俑、青銅製の剣·矛·弩が発掘されたのである。人馬俑はいずれも等身大の陶製であった。兵一〇〇万、戦車一〇〇〇乗、騎馬一万と史書に歌われた強大な始皇帝軍団を彷彿させるに十分である。
紀元前二〇六年。秦王朝を倒した漢は、秦の咸陽城の南、現在の西安市の西北に都城を建設した。中国社会科学院のこれまでの調査によれば、城壁は全長二二·七キロ。その中にあった未央宮、長楽宮など諸宮の多くの宮殿址、武器庫などの庫、幅五〇メートルの大道。さらに下水道跡などが確認されている。
前漢王朝一一代の皇帝のうち九帝の陵墓が渭水北岸の五陵原に営まれている。そのうち最も大きいのが、シルクロードを開拓して漢王朝を世界帝国たらしめた第七代武帝の墓茂陵である。西安市の西北七〇キロにある茂陵は、基部が一辺二四〇メートル、高さ四六·五メートルの平頂台形の土築の塚である。その西北に隣接して寄り添うように、武帝最愛の李夫人墓があり、また東へ七〇〇メートル離れて、匈奴を破ってシルクロード開拓に功のあった霍去病の墓、衛青の墓など、武帝が寵愛した文武の臣多数の倍塚がある。今は辺り一面小麦畑である、かつては人口八万三〇〇〇の陵邑が営まれていた。
前漢からおよそ六〇〇年後、この地に都を置いたのが隋とそれにつづく唐であった。隋はその都城を大興城と称したが、唐は「末長く天下を安寧ならしめる」の意をこめて長安と名付けたのである。唐代長安城については、一九五七年から中国科学院﹙現·社会科学院﹚考古研究所などの手で発掘調査が行われた。その結果と史書などの記述を重ね合わせて「長安城坊復原図」が発表されている。それによれば外城の長さは東西九五五〇メートル南北八四七〇メートル周長六五キロ口余り。秦漢の都城より壮大であった。因みに現在の西安城は、明代の造営で、その規模は唐長安城の周長安城の周長で三分の一、面積で九分に位置である。
唐長安城は、一〇世紀初め唐を減ぼして後梁を建てた朱全忠の手で焼き払われ、今はほとんど面影はない.唐代遺構としては、現在の城外南部にある慈恩寺の大雁塔などわずかである、慈恩寺は貞観二〇年、高宗が皇太子であった時、生母を供養するために建てたものだが、現存するのは明代の重建である。大雁塔は慈恩寺造営の六年後の永徽三年、,玄奘三蔵がインドから持ち帰った多数の経典を収めるために建てられたもので、高さ六〇メートル、方形七層の磚塔でよく唐代の面影を残している。この慈恩寺をはじめ、唐長安城には、仏寺九一、道館があった。空海ゆかり青龍寺は城内東部中央の楽遊原にあったが、今はわずかに記念塔に面影を残すのみである。また城内東部北側にあった玄宗の離宮興慶宮は、今は公園として開放されているが、そのなかに阿部仲麻呂の記念碑が立っている。
「温泉、水滑らかにして凝脂を洗う」と白居易の『長恨歌』に歌われた玄宗と楊貴妃のラブロマンスの地、華清宮跡は、西安市の東三〇キロ。驪山の麓にある。当時の華麗な宮殿群は今はないが、一九八五年、玄宗と楊貴妃が湯あみした白石張りの浴池が発掘されている。今もなお四三度の湯泉が湧き、離宮跡には湯場や唐代の栄華を偲ぶ朱塗りの建物や回廊がしつらえられ、観光客で賑わっている。
玄宗の開元·天宝の盛世は、天宝の盛世は、天宝一四年(七五五)の安禄山の乱で暗転する。その悲劇の跡は、西安西北七〇キロ、馬嵬の楊貴妃墓で偲ぶことができる。楊貴妃は玄宗とともに四川の成都へ蒙塵(都落ち)する途中、馬嵬でつき従った軍の反乱にあって玄宗から死を賜たのであった。面積三〇〇〇平方メートルの陵園に、径一〇メートルほどの灰色の煉瓦づくりの円形の墓がある。
唐王朝の皇帝たちの陵墓は、西安北方にまれている。その中で最も大きいなのは、高宗と則天武后の合葬墓の乾陵である。海抜一四〇九メートルの梁山全体を陵墓とした壮大なものである。参道には、高宗の葬儀に参列した世界各国の使節たちや文武百官、シルクロード伝来の珍獣奇禽などの、いずれも石像が立ち並んでいる。
乾陵も多くの倍塚にとりまかれているが、その中で章懐太子墓、懿徳太子墓、永泰公主墓の墓道には大規模で美しい壁画が描かれていた。宮女、各国、使節、宮殿と盛儀、狩猟、などの図で、唐代の宮庭や王候、貴族の生活を目前にするようである。それらの壁画は、一九九一年七月、大雁塔の近くに開設された陝西歴史博物館に収められ、ほかの多くの出土品とともに展示されている。
現在の西安所内の南部に、かつての孔子廟を転用した陝西省博物館がある。その中で有名なのが、西安碑林で、唐の開成年間(八三六―は八四〇0に成った巨大な『論語』全文の石刻をはじめ、王義之、欧陽詢などの大書の書跡、さらに景教の伝来記した「大秦景教流行中国碑」など、一〇九五基の石碑が偉観を競っている。
こうして西安の史跡は枚挙に遑がない。新しい国際部都市西安は、また中国の古都中の古都ということができる。なお西安市は奈良市、京都市と友好都市になっている。
 
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