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絹の道 シルクロードと中国
 
 
シルクロード(Silk Road) 長安から天山回廊ルート 世界文化遺産
 
シルクロード(Silk Road)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称です。絹の道とも呼ばれています。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから、名付けられました。2014年6月22日に、『シルクロード : 長安=天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録されています。よく知られる西安の大雁塔、小雁塔、唐大明宮遺跡、漢未央宮遺跡、興教寺、天水の麦積山石窟、蘭州の炳霊寺(へれいじ)、敦煌の玉門関、トルファンの交河故城、高昌故城などはその重要な遺跡として、世界文化遺産になります。現在の日本で、『シルクロード』と言う言葉が使われる時は、特にローマ帝国と秦漢帝国、或いは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いですが、広くは 近代(大航海時代以前のユーラシア世界の全域に渡って、行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含めます。
 
絹の道ことシルクロードは、「シルクロード : 長安=天山回廊の交易路網」という名称で2014年に世界遺産に登録されました。
漢や唐の時代に都だった長安(現在の西安)や洛陽から天山回廊と呼ばれるルートを経て、中央アジアに至る計5000kmの遺跡群や、仏教の石窟寺院や要塞など計33の遺跡が含まれています。中国・キルギス・カザフスタンの3か国が共同で申請していました。
シルクロードは中国特産の絹を西側へ運んだ交易路で、紀元前2世紀ごろから形成されたとされていて、シルクロードは様々な文明をつなぎ、交易のほか宗教や文化、芸術などの交流を促したとして評価されました。


シルクロード 用語の歴史
シルクロードという語は19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『シナChina 』(1巻、1877年 )において、ザイデンシュトラーセンSeidenstrassen ( ドイツ語で「絹の道の意」として使用したのが、最初で、彼の弟子ヘディンがその中央アジア旅行記の一つの書名にこの言葉を使用し、さらにその本が1938年に『ザ・シルクロード』という題名で、英訳されたことにより、有名になりました。
リヒトホーフェンやヘディンらこの語の元来の使用者は、東トルキスタン(現在の中国 新疆ウイグル自治区 )を東西に横断する交通路を意図していましたが、後には中国を起点・終着点とする国際交易路を広く指しても使われるようになりました。
現在の日本では、ときには、シルクロードの通過する地域である中央アジアを地域的に指す言葉としても、使われることがあり、日本ではシルクロードの通る地域は、中国で伝統的に言った「西域 (さいいき)という言葉とともに広く知れ渡っています。
 

シルクロードの起点と終点
シルクロードを中国とローマとの間の主要貿易路とするならば、その中国側起点は洛陽 (河南省 洛陽市)です。 長安(陝西省 西安市)という説も有力ですが、 2007年 4月に中国政府は洛陽であると認定され、その欧州側起点はシリアのアンティオキアと定義できました。この名称をリヒトホーフェンとヘディンが使用した意味で理解すれば、こ隊商路の主要な路線は次の3本になります。
敦煌(とんこう)から、アルトゥン山脈に沿い、ホータン 、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南辺のオアシスを通過して、パミール高原に達する南方の交通路 (西域南道)。これが最も古くて、砂漠の南を通ることから西域南道または漠南路とも呼び習わします。 
敦煌から、トゥルファン を経て、ウルムチに達し、イリ川流域に至るもの。この北方のシルクロードはおそらく紀元後数年に開かれました。天山山脈の北麓を進むことから天山北路とも呼び習わします。 
敦煌から 楼蘭(ろうらんを経て、コルラに達する中央路は北方路よりも古く、南方路と同じ頃の紀元前2世紀 にさかのぼり、最も重要な隊商路として、4世紀前半まで、使用されていました。天山南路あるいは漠北路とも言います。
 

海のシルクロード
シルクロードと言う語は中国と関わる貿易路の代名詞のようにもなっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジア、インド洋を経て、インド 、アラビア半島に至る海路のことを「海のシルクロード」と呼ぶこともあります。
既に、プトレマイオス朝の時代から、エジプトは紅海 の港から、インドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマはこの貿易路も継承して、南インドにアメリカドゥなどいくつかの商業拠点を築き、絹を求めて中国にまで達したことは中国史書にも記載されています。古代には、マラッカ海峡はあまり使われず、マレー半島のクラ地峡を横断するルートが多かったです。このルートで、セイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのです。陸のシルクロードは諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのに対し、海のシルクロードを遮るものはなかったです。
7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人( アラブ人 、ペルシア人等の 西アジア出身のイスラム教徒 商人)が絹を求めて、大挙中国を訪れ、 広州などに居留地を築き、中国のイスラム教徒居留地は黄巣の乱によって、大打撃を受け、一時後退しましたが、宋代になると、再び中国各地に進出し、元代まで続きました。 明は海禁政策を取り、 朝貢貿易しか認めず、16世紀 には喜望峰経由で、ポルトガル が進出した為、イスラム商人の交易ルートは衰えました。
 

シルクロードと日本
日本では、奈良の正倉院に残る数多くの中国製やペルシア製の宝物、天平時代に遣唐使に随行して、ペルシア人 が日本に来朝したことに関する記録などがあります。当時の日本は唐代の東西交通路に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがあります。
日本では学校教育でシルクロードを取り上げてはいましたが、 中国との文化交流が進む過程で NHKが1980年に放映した『 NHK特集 シルクロード-絲綢之路- 』によって、一躍シルクロードの名は有名になりました。日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタンイラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言っていいほど「シルクロード」という言葉が記されています。特に 中央アジア (敦煌・サマルカンド )といえば、シルクロード、という連想は非常に強いです。
弊社は中国旅行代理店として、西安を拠点として、西安旅行の兵馬俑観光ツアー、天水旅行の麦積山観光ツアー、敦煌旅行の莫高窟玉門関観光ツアー、洛陽旅行の龍門石窟少林寺観光ツアー、新疆のウルムチ観光ツアーやトルファン観光ツアーやカシュガル観光ツアーなどのシルクロードツアーを催行しております。中国・シルクロードツアーのことなら、是非とも、シルクロード旅行の専門サイトにお任せください。

 
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